書評「1兆ドルコーチ」

物理的に棚を占有する必要がないのでここ数年は電子書籍しか買わなくなっていたのだが、先日、IT戦略やシステム投資関連の書籍を探しに久しぶりにリアルな書店を訪れた。大きめの本屋を歩くとそれだけで今何が流行っているか世の中の雰囲気を感じることができる。本屋はなかなかの危険地帯で、訪れると必要もないのに必ず何かしらを購入してしまう。
今回もまんまと罠にハマって、「1兆ドルコーチ」を購入してしまった。
衝動買いは幸せ。

1兆ドル(106兆円)

「1兆ドルコーチ」は、2016年に亡くなったビル・キャンベルという一人のコーチの伝記であり、ある種のコーチングの教科書にもなっている。率直にいうと、コーチングの天才ビル・キャンベルの特異な経歴・能力・キャラクターなどが無ければ成立せず、決して真似できるような代物ではないのだが、それでもチームを組み立て、組織を強化していきたいと思っている人には色々な意味で示唆に富んだ本である。

ビル・キャンベルは、元々コロンビア大学フットボール部主将として優勝を経験し、オールアイビーリーグにも選出されるような優秀なフットボーラーだった。しかし体格に恵まれていなかったためプロにはいかず、卒業後母校のヘッドコーチに就任するも、大学などからの支援に恵まれず。また、選手選出に冷徹になりきれないなどもあり、6年連続負け越し。フットボールのコーチとしては芽がでなかったようだ。

そこでビジネスの世界へ転身すると、メキメキ頭角を表した。
コダック社では消費財務部門の責任者となり、ジョン・スカリー(*)に請われてアップルへ移るとセールスマーケティング担当副社長に昇格し、「マッキントッシュ」販売。その後、クラリス社やGOコーポレーション社を経てインテュイット社CEOへ。
(*)ジョン・スカリー: スティーブ・ジョブスに「一生砂糖水を売り続ける気か?」と言われてコカコーラを辞めた。その後、ジョブスをアップルから追放するも、アップルの経営を傾けたことで有名。

その後、2000年にはインテュイット社CEO を辞す。この時点で既に60歳近かったが、彼がコーチとして最も重要な時代を過ごしたのは、これ以降、ベンチャー・キャピタルから投資先の経営者のコーチを求められてからである。
そこで出会ったのがGoogleのエリック・シュミット、ラリー・ペイジ、セルゲイ・ブリンだったのである。
ビル・キャンベルは、スティーブ・ジョブスのメンターとしても活動。この時期はちょうど、ジョブスがアップルでCEOに返り咲き、iPod, iTune,iPhoneなど革新的な製品を世の中に輩出した時期にも重なる。

彼が一体誰をどれだけコーチしたのかは分からないが、2016年に彼が亡くなった時には、Googleのメンバーと共に、Facebookのマーク・ザッカーバーグ、シェリル・サンドバーグ、アップルのティム・クック、Amazonのジェフ・ベゾスなど、GAFAのエグゼクティブなどそうそうたるメンバーが参列している。

本のタイトル「1兆ドルコーチ」は、まさにビル・キャンベルがコーチングして支えた経営者たちの企業の時価総額から付されている。

チームファースト

面白いのは彼がアメフトのコーチから広告会社に転職したのは39歳という年齢だったということ。コロンビア大学を出ているくらいだからそもそも頭の作りが違ったのかもしれないが、本では彼のそういった能力については一切言及がない。
それにしても全く毛色の違う業界に40歳近い年齢で飛び込んでいくのはどれ程の勇気がいったことだろう。しかも、セールスの経験がない人材が、当時のトップ企業であったコダックやアップルで部門のトップまで上り詰めるのはどんな魔法を使ったのだろう?

本を読むと分かるが、ビル・キャンベルの視点は人とは根本的に異なる。彼の中心にあるのは、自分ではなく「チーム」である。
この本で私が一番印象的だったのは、

「問題そのものより、チームに取り組む」

という点だ。会社で何か事業を揺るがす大きな問題が起こった時も、ビル・キャンベルは問題解決には取り組まない。問題解決にあたるチーム(ビルディング)にこだわる。

「誰が問題に当たっているか、適切なチームが適所に配置されているか、彼らが成功するために必要なものはそろっているか?」

これは目から鱗だった。

何か組織で問題や課題があった場合、我々はすぐにそれを解決するための方法にフォーカスしてしまう。しかし、実際にそれを解決するのは人であり、チームである。実は大抵の場合、問題や課題の答えは当事者が持っていて、結局「誰が」やるか、それをどう支援するのかが、やり方以上に重要な場合が多い。

全く知らないセールスの業界に飛び込むなんてどれだけ怖いことなのだろうと考えるのは、非常に「私」的な視点だ。彼は徹頭徹尾、チームをどのように生かすかを考えていたのだろう。それが、アメフトのコーチとして培った彼の存在のベースであり、だからこそどこへ行ってもエグゼクティブへ吸い上げられるのだろう。組織にいると分かるが、個人として優秀な技術者やセールスマンは幾らでも探せるが、組織作りができる人材というのは本当に少ないのである。

理想のコーチ

ビル・キャンベルの写真を見ると好好爺である。

ビル・キャンベルは、名だたるI T企業のCEOのコーチとして有名だが、老若男女分け隔てない人柄だったようだ。私立中学校のフットボールのコーチも引き受けていて、スティーブ・ジョブスから電話がかかってきてもコーチ中は絶対に出なかったそうだ。

一方、さぞかし人格者だったのだろうと思いきや、結構な悪態親父でもあった。
本にはビルの追悼式で配られた「ビル節ベスト10」が載っているが、

7位 ぼんくらめが
2位 しくじるなよ
1位 お前のケツの穴から頭を引っ張り出す音だ

だそうだ。(1位がどういうシチュエーションで使われる言葉かはよく理解できないが・・・。)
悪態は人間のコミュニケーションにおける最も高度なテクニックだ。使い方を間違えると、自分では上手いこと言っていたつもりでも単なる嫌味にしかならない。しかし、彼は汚い言葉を使いながら、周りから深く愛されていた。

自分の周りに、クヨクヨしていてもケツを軽くひっぱたいてくれるオヤジが横にいてくれたら、本当に元気付けられるだろうな。もうそんな歳でもないし、逆に自分が周りにそうならなければいけない歳でもあるが。

彼は、コーチングに対しては一切報酬を貰わなかった。それは彼には一つの「ものさし」があったからだ。
どんな「ものさし」かは、実際に本を読んで見ていただきたいが、こんな生き方・考え方があるんだなと、何故か泣けてしまった。

なかなか熱くなる本だった。